メディアリレーション(広報)101か条:私の自分史

 ワシントンにあるアメリカン大学院の国際関係学部、国際関係論の博士課程在学中、私自身、周りから情報源になるなどということは一切求められていなかった。大学院生というものは、 情報源とは捉えられていない。言うなれば我々は何者かに向かう半ば道筋の途中であり、未だ未完の身でもあった。当時のニュースメディアも半ば道筋の者よりもすでに経験のある者を望んでいた。

大学院を卒業後、私は海外情報局(USIA)に就職した。上司からはフルブライト教育プログラムに関する記事を監視し、補助金受賞者がどのくらいメディアに取り上げられているかまとめるように依頼された。これは正直簡単な仕事ではなかった。政府のプログラムというのは官庁の用語で例えれば、一見無駄なもの、詐欺行為、不正受給、失敗、非常識、税金の無駄使い以外決してニュースメディアには面白く見えない。それが今やニュースに取り上げられるようになった。

フルブライト奨学金というのは個人や専門家が個人の成長のためには良いものではあるが、国内や国際的に見て視聴者が見て面白い 視点というのは皆無と言える。

というように、 フルブライトで私が奨学金を受賞して当時のドイツ連邦共和国(西ドイツ)へ行ったところ、私の出身地でもある地元の新聞社、グリーンビルニュース社に「西ドイツへの旅」という記事を掲載していた経験がある。2年後、同じ新聞社が私のドイツ民主共和国についての記事「東ドイツへの旅」も掲載した。

80年代は冷戦こそ注目の的だった。鉄のカーテンのすぐお膝元で大学生活を送った初の人物。言ってみれば私自身がニュース記事にはもってこいの題材でもあった。海外情報局(USIA)時代の私は、フルブライトの奨学生が地元で賞をとるなど、情報を集めるのに時間がかかる記事を集めていた。

そんな中、26歳のスタンフォード大学院生であるエイミー・ビールが突如メディアの沈黙を破り登場する。フルブライト奨学金が計画通りに実行されなかったのだ。というのも南アフリカから二度と帰らぬ人となってしまったからだ。彼女はアパルトヘイトの煽動により非白人居住地域における容疑にかけられ暗殺された。このぞっとするような死がきっかけとなり、エイミー・ビールはフルブライト奨学生の間で瞬く間に知られる存在となり、やがて国際的なニュースメディアにも取り上げられるまでとなった。

エイミーの死が報じられた1993年8月25日、私は海外情報局(USIA)の学術交流部で働いていた。それはまさに我々にとっての大スキャンダルであり、メディアでもセンセーションを巻き起こした。一つの外交問題が国際公共へ与える影響上国内のメディアで報じられるということはまずない。

私自身フルブライトブランドを世に知らしめる最大の貢献と特権をこんな形で語りたくはなかった。もしもフルブライトのプログラムを後退させるようなことになれば、それはビール家を元気付けることにはならないからだ。悲しみの中、家族は南アフリカに戻りエイミーが成し遂げられなかった仕事を完成させることとなる。彼女の功績はエイミービール財団として今なお受け継がれている。

海外情報局(USIA)の教訓から学んだレッスンというのは時に何の準備もなくストーリーというものは生まれてくるということだ。驚くようなこと、悪い出来事、人生を変える局面に遭遇した場合でも常に備えをしておくことが大切だ。

それは自分のお気に入りのメディアばかりに目を配っていてはダメということである。自分がやりたいと思った時に情報を発信しなさいということでもある。戦略的なコミュニケーション、広報、アドボカシーについても同様である。たとえば会社が危機的状況に陥った際、その話術力次第で結果は大混乱に陥ったり平和に解決することもできるという教訓でもある。

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